博士の愛した数式の記事2018.07.24
数式は美しい
時が止まる静寂の世界に浸ろう
keyword: 博士の愛した数式 小川洋子 小説 めくれバ この一冊で大人の夏休み
2018.07.24 文章 / 和田由紀恵
数式とは一幅のアート
それでも高校の数学教師がふとつぶやいた「数は美しいんだ!」という言葉は、私の中にずっと引っかかっていました。
数が美しいってどういうことなんだろう。解を出せば、それで目的を果たせるのが数学なのではないのか。「数式」という言葉が入ったタイトルの文学小説。なんという矛盾。正反対にあるはずの文学と数学が、どんなふうに共生するのかが気になります。それが、重度の数学アレルギーのくせに、私が本書を手にとってしまった理由でした。
ページを繰れば、穏やかな語り口で進む物語は読みやすく、シングルマザーとして奮闘する主人公に自然と心を寄せられます。読み進めるうちに、出てくる出てくる、かつて数学で習った用語がどっさりとページに散りばめられてきます。当時はあれほど嫌いだった数学なのに、不思議と抵抗はありません。それどころか素数や完全数が、本書の中で血の通った生き物となって動き出すのです。
なぜ数字が血肉を持ち、生き生きと躍動するのかというと、「博士」は愛情と憧憬を込めて数学を語るから。数学なのに、非常に詩的で美しい解説。あたかも、美しい一遍の詩を暗誦するかのよう。
高校の数学教師は、あの時おそらく「博士」と同じことを伝えたかったに違いありません。「君たちが目の前にしている数字の羅列は、1つのアートなんだよ」と。定理や公式は未だに全く頭に入っていないけれども、今ではそれらが美しい存在なんだと納得できます。数と数の交わり、そこから導かれる奇跡のような関係は、数式として永遠に焼き付けられる一幅のアートなのでした。
時が止まり、静寂が支配する世界
「博士」は優れた数学者だったのに、事故で脳に障害を受け、80分しか記憶が保ちません。「博士」の目の前から80分以上いなくなれば、どんなに親しくなった関係でも「博士」にとっては初対面の人。事故以前の記憶の中に生きている人だけが、その当時の姿のまま「博士」の中にしっかりと保存されているです。自分の現在の記憶が保たないという「博士」の深い悲しみを、主人公親子は暖かく包みます。
本書の中盤に、「博士」がファンであり続ける、阪神タイガースの江夏のエピソードが描かれます。お菓子のおまけでついてくる、名選手たちの野球カード。もちろん江夏のカードもあります。動の娯楽であるはずの野球が、1枚のカードの形となって永遠にそこに静止する。スタンドの声援のない、静寂が広がっています。それもまた、「博士」にとっては、一幅のアートに違いありません。記憶の中で永遠にマウンドに上がり、活躍を続ける江夏。悲しみと、憧れと、深い愛情。
せわしなく日々の時間に追われる私は、本書の中でしばしば現れる静寂と時の停止に、深く息をつく思いでした。休みをとって、遠くのビーチでパラソルの下に寝そべるのも、森のなかで涼風に心身を洗われるのも素敵です。でも1冊の文庫本を開くだけで、時と美しさ、悲しみと愛情に思いを馳せられる。忙しい日常にこそ、ページをめくりたい1冊です。
『博士の愛した数式』の書籍情報
著者: 小川 洋子
初版発行: 2005/11/26
出版社: 新潮社
価格: 594円(税込)
サイズ: 文庫本
頁数: 291ページ
ジャンル:日本文学
読了目安: 2時間
ISBN:978-4101215235
受賞歴:第55回(2003年) 讀賣文学賞小説賞受賞
第1回(2004年) 本屋大賞受賞
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数式は美しい
WRITER
編集者・ライター
和田由紀恵
小泉堯史監督によって、2005年に映画化された本書。美しい桜の景色が印象に残る同名の邦画も観ると、より世界観が楽しめるかもしれません。でも、数字の美しさを(定理や公式は理解できなくても)自分の中に落とし込みたかったら、やっぱり原作の本書をオススメします。ルート(本書に出てくる子ども)の心理や成長も、必読です!